椅子づくり9脚目にしてやっと「ゴッホの椅子」を試作しました。椅子づくりプロジェクト(極個人的なものですけどね)の発端となったゴッホの椅子なんですが、私のコンセプトは「素人が簡単な手道具だけで手軽に作る」というもの。しかし実際に作ってみると微妙な意匠があって経験を積まないと作るのは難しいかも。一見シンプルに見えるけどちょっとした意匠によって全体のまとまりもよくなっている。シンプルなだけに効果的なのです。組み立ててみて改めてデザインの優秀さに感心した次第。そしてわくわくしながら座面を編む。ゴッホも腰かけていたこの椅子の座り心地はいかに?
最近友人知人に会う機会が増えてます。先日も大月の知人を訪ねました。その人ヨガの先生なんですけど何かと話が合う。そして思いもしないところでバッタリ会ったりする。で久しぶりの再会だったので話に花が咲きましたが別れ際にその人が石をくれました。勿論ただの石ではない。その人はスピリチュアルの大家でもあるのですがなんでも高価なものらしい。霊験あらたか。では、何故そんなものをもらったりするのでしょうか?
そう私ガンマンなのです・・・いやいや、「なにガン飛ばしとんねんワレィ」「すいません私ガンマ」ちがうて!、ガンですよ癌。やっぱ宣告されると目つきも変わるか?ガン飛ばしてる?
この春もバラが咲きました。実は昨年末バラの剪定をしながら来年の春はバラの花を見ることが出来ないかもしれないと考えていました。人生初の手術を前にして検査につぐ検査の合間にフトそんな思いがよぎったのでした。幸いこの春は赤いバラに加えて今年初めてピンクのツルバラも沢山花を付けていて私の無事を祝ってくれています。
さて我家の菜園は基本「ズボラ農法」なのですが同時に「なんとなく自然農」「なんちゃってオーガニック」でもあります。ところがこの度体の健康を害してシビアにオーガニックと健康について考えてみました。
常々不思議に思うこと。私はなんでこんなにアフリカの音楽に魅かれるのだろか?若いころアフリカを旅した影響は勿論大きい。なんですがどうも菜園生活とも関係しているような気もします。
半年ぶりに石窯やりました。知人のWさんのコーデネイトでクリスマスのシュトーレンを焼こうという趣向です。
椅子づくりに取り組んで早くも4年が過ぎました。まだまだ試作段階ですがだいぶ手応えは感じています。プロトタイプの完成も近い、かな。そんなこともあり最近デザインについて考えています。
耕す・カルチという言葉はカルチャーの語源となったほど文化・文明の礎です。勿論、現行の農業にとっても基本中の基本。ところが耕さない農法が今注目されています。
「天網恢々疎にして漏らさず」という格言をご存知でしょう。一般的には悪いことはいずれ天に罰せられるという意味で使われるようです。しかし本来は天の摂理は荒い編み目のように見えて何ものもそれから逃れることはできないという老子の教えからきてます。天然自然の摂理は疎かにできないのよという戒めでしょうか。農的営みもその摂理に従って行われます。またその摂理を解明するのが自然科学です。では農的営みが自然科学に従属するのかというと、そうでもないような気がします。今回は少し「菜園ス」、つまり農的営みと科学的思考について考えてみます。
なぜ人類は異星人と交信できないのか?
生物地理学者のジャレド・ダイヤモンドは知性を持った生物が存続できる時間は思ったより短命で高度な通信技術や移動手段を発明する前に絶滅してしまうのではないかと云っています。(私達人類はかなり崖っぷちにいる?)また知性とは人間だけのものではなく他の生物にもある多用なもので、ただ種を超えた知性同士のあいだでコミュニケーションが取れないだけなのかもしれない。そう宇宙の知的生命体だけでなく地上の様々な生物からのメッセージも私たちは気が付かないだけなのかもしれない。例えばクジラやゾウ、さらにはハチやアリなど動物あるいは昆虫などにも知性があるという話は耳にしたことがありますよね。
しかし最近では植物にも知性があるのではないかという説を唱える人が世界各地に現れている。
菜園に温室は必須というわけではないけれど、在るとなにかと便利な点がある。まず苗を育てている期間も菜園で前作を作りつづけられる点。狭い菜園ではこれが助かる。それから苗に仕立ててから畑に移植すると虫の食害を多少は防ぐことが出来る。葉物など軟弱野菜は苗に仕立ててから菜園に定植した方が虫の被害が少なくてすむのです。そしてこれが一番の理由ですが温室で食用のバラを育てたい・・・